Panderworld Dreams

ぼくが考えたことを書くところ

「完璧」のネガティブと無文脈の魅力

僕(この一人称は気にくわないけど、かしこまった文章だと他にしっくりくるものがないのでこれを使う)は、完璧という言葉に少しネガティブなイメージを持っている。

完璧(無謬と言い換えることもできるかもしれない)であるということは、受け取り手の解釈を拒む、閉じた存在であるように思われるからだ。

僕はそういったロジックから、理不尽な完璧よりも、物事にはその後に個々人の解釈の余地を残していた方が魅力的であるように感じてしまう。まあ、単純に僕が凡俗な人間なので、高尚な完璧さの背後に在る文脈を理解できないだけなのかもしれないが。

そして、それと同時に受け手に解釈の大部分を任せるような、「無文脈さ」に魅力を感じる。ここでいう無文脈というのは、自分の価値観や人生の文脈(バックグラウンド)に即さない物事全般だ。

無文脈を解釈しようとすると、その受け取り方は十人十色であり、なおかつその解釈の過程で自分自身の内面と否が応でも対話することになるからだ。「書を捨てよ、街に出よう」ではないけれど、大事なのは物事をどれくらい理解するか、ではなくて、どのように理解するか、だろう。自分が物事を解釈した過程には自分なりの価値観があって、その加齢や経験によって絶えず変化する価値観が物事との対照で浮かび上がってくる。

物事には疑いの余地が必要で、その物事そのものはどうであれ、受け取り手である自分自身による解釈あるいは疑問によって、人は前に進める、あるいは歩いてきた道を確かめることができるような気がする。

逆に閉じて変化のないもの、完全無欠のものは何か淀んだ水たまりのような嫌悪感を感じさせる。

特にオチはないけど、このブログで書く文章は多分こんな感じ。気色悪くても許してほしいナ。